岡本眞ブログ
2014.09.14
年度の後半に向けて
久しぶりのブログです。どうも一旦、止めてしまうとさて改めて考えるのも億劫になってそのうちに、そのうちにと延び延びになってしまいます
。
根が飽き性な上に、何かと強制が嫌で言い訳が得意な自分は、日誌とか決め事の行いにはあまり気が進まないのです。「いずれそのうち・・」「いつか、また・・」など実に便利な言葉を自分に使ってるんですね
。
とか言っているうちにもうどんどん陽が短くなり秋本番になってきました。3連休の土曜日、2階の窓から隣の公園を見下ろすと何十匹もの赤とんぼが気持ちよさそうに風に乗ってすいすい飛んでいました
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今年は梅雨がずっと9月まで続いたような雨夏でしたね。炎天下、白球を追う甲子園球児達の試合も豪雨でずいぶん延期されましたよね
。
そういえばジージーと鳴く油蝉の声も、夕立のあと物寂しくカナカナカナと鳴くひぐらしも、お盆過ぎには「ツクツクボウシ♪ツクツクボウ~シ♪」の名残のせみ声も聞かずじまいに去ってしまいました。まことに無常迅速です
。
不治の病に侵され余命幾ばくもない患者さんや死刑囚は、残されたこの世の命をいかに充実した日々にするか、真剣に考え行動されるといいます。もうあと何日、何時間ともなれば真剣に考えざるを得ないのでしょうね。
私も還暦を過ぎてからというもの自分の歳を重ねるのを敢えて忘却するかのように気にはしないようにしています。しかし人間、いつまでも生きていられないことをもっと自覚すべきでしょうね
。ただ惰性で永らえても生きてても幸福ではありません
。昨今、「健康寿命」の拵えが一大関心ごとになっています。連日、テレビでも雑誌図書でも取り上げられています。皆が健康で長生きし、最後はピンピンコロリ。こんな幸せなことはありません。私もそう願いたいものです
。
人生の最終章に向けて先人の言葉にあるように「生きているのではなく」「生かされている」ということをもっと謙虚になって
これからの心掛けの底に置きたいと思います
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「人生は二度ない。人生を愉しもうじゃないか」は、いかにもイタリア人的発想で「生きる」面白みというべきといえますね。
ただし無理に非凡に生きようとすれば、さまざまな悲劇・喜劇・惨劇さえ起こします。これまた人生ドラマ、まるごと自分の足跡でもあるのです
。それはそれで後悔の何一つできない代物なんです
。
歳のせいでしょうか、最近、どうも生きるよりも生かされている、との思いのほうがしっくりきています。
「生きる < 生かされている」ことの心構えは、自分を必要以上に背伸びもさせず、自然体でしかもできる範囲での目標に何とか努力できそうにも思えてきます。
欲を張ってもそれがどれだけのもんや。生かされているんやからその人たちに感謝の気持ちはちゃんと形で表していこうと。でもそれはそれでかなり具体的で現実的な意思と行動が求めれます
。
今朝のNHKで、高齢者の健康生活のケースが紹介されていました。女性は自宅から出て生きがい探しが得意だが、男性はなかなか外出さえできない。何とか自宅から外に誘き出す生き甲斐の居場所をと、東大と共同で研究したが将棋・囲碁、図書館、勉強会、共同農園などは効果なしという
。
高齢男性を外出させ生き甲斐探しのヒントは「役割」が共通用語なのだそうです。要するに地域・職域に関わらず社会的な役立ち度
が男性の生き甲斐で、お年寄りには「こんな役割をひとつ担ってもらえないでしょうか」と上手に乗らすことが決め手だといっていました
。
私も痴呆になる前に小さな志かもしれませんが社会との関わりをやはり今の仕事で中で果たすよう、自らを鼓舞していきたいと思いました。