オフィス人事教育のふれあいブログ

2010.01.03

節目 折り目のお正月
皆さん思い思いにこの1年の健やかな生活を祈りながら一家団欒で過ごしたり、初詣に行かれたりされたことでしょうね。
 僕は、息子一家が孫を連れてきたり、近くの温泉に行ったりして日本のお正月を楽しみ、例年なくのんびりと過ごしました。
年末に買って帰った本もゆっくり読み自分なりの充電にも成功しました。

それらの本にも触発されて、僕の誓った今年の守りたいこと、
先ずは健康。午後12時には床に就く。自然のバイオリズムに逆らう生活はやめる
そして気持ちです。人間は年をとるほど枯れてはならない。いつまでも瑞々しく生命力にあふれていること
の2つです。
 
 早寝、早起きの習慣はだれもがよく知っている健康法の最もポピュラーな実践法です。でもこれが案外難しいのですね。僕も随分、これまで心掛けました。でもできない言い訳ばかりが先に立つ。。11時就寝・6時起床のつもりで取り組んだことは過去どれほどにあったことか。。。そのたびに”ニュース23”ぐらいはみたいとか、やれ友達との付き合いとかなどで夜遅くなることしばしば。。。そのたびに”教養は夜作られる”などと勝手な言いぐさしきり。。
 
さて瑞々しい生命力??これの維持はかなり心して取り組まなきゃあ徒労に終わること可能性大です。しかも僕の心根にあたる問題でもあります。
 ●好奇心が旺盛か?
 ●フットワークが軽いか?
 ●人と出会い話すことが好きか?
 という問いが僕を揺り動かします。好奇心?これはかなり該当します。
あと2つは自分尺度での判断になります。従ってかなり狭い範囲での行動というのが正直なところです。

う~ん ここは苦戦 免れないか。届きにくい小さな声にも耳を傾けるという、人としての誠意も、残念ながらなんとも心もとない。

しかし早く寝るということと瑞々しい生命力を維持することを、実践するにはなにも難しいことではない。そのまま文字通り行えばいいことですね。なにもつあれこれできないこと理屈をつけるほうがナンセンスです。
 
 茨木のり子さんの詩「自分の感受性くらい」のフレーズに、
「ぱさぱさ乾いてゆく心を
 人のせいにするな
 みずから水やりを怠っておいて

 気難しくなってきたのを
 友人のせいにするな
 しなやかさを失ったのはどちらなのか
  
  ・・・・
 自分の感受性くらい
 自分で守れ
 ばかものよ」

 胸にしみる言葉ですね。

現役を突っ走っている元気なお年よりの代表格、中曽根康弘元総理(91歳)がこんなことを言われていた。
「政治生涯は恩やあだなど複雑なものが絡み合ってできている。それを達観するのが政治家の修行だと悟ったね。元気の秘訣は心配しないこと、言い換えれば “何とかなるさ!!”」と、そういえばあの塩じい(塩川正十郎さん)も同じように「3歩歩いたら嫌なことはみな忘れる!!」とのたまわれた。

 あのねえ!
政治家のように厚かましく、ここまで達観できたらせわないわ~。
2010年、お正月のわが”小志”でした。

2009.11.22

土曜日に母校の大先輩に誘われて、ユニバーサルコンサルタント(ユニコン)研究会という勉強会に行ってきました。
急成長を続ける中国の視察報告でした。テレビや新聞では分からない中国ビジネスの実情をありありと聞くことができました。なかでも内モンゴルや天津市、四川省など内陸部の成長が際立つとの話でした。昨年のリーマンショックの煽りで上海市、広東省など沿海部の大都市が低迷しているのと対照的なお話でした。

僕がびっくりしたのは、中国政府による切れ味鋭い国策投資とそのスピードの速さ、大胆な方針です。未開発地域のインフラ整備投資、電気自動車製造、太陽光発電システム導入計画、環境モデル都市計画などその政策の規模といい、戦略的な試みが実にダイナミックなことが分かりました。たしかに共産党1党権力なので意思決定が早いのはうなづけますが、プライドの高さが充分伺われます。環境問題など世界から非難されることを恐れ、いち早く電気自動車やエコモデル都市計画などに総額100兆円以上の投資を決定してしまう中国の懐の深さをまざまざ見せ付けられた思いです。

 私たちはなんとなく日本こそ環境技術は世界のトップレベルであり、次世代産業の育成についてもわが国が一歩、前進しているんだという錯覚をしているのではないでしょうか。また中国に対するイメージもどこかに”目上から視線”をしているところがあるんではないか、という気がしています。

 日系合弁企業が失敗する多くのケースは、このような横柄で偏見した労務管理が原因としていると聞きます。成都市にあるイトーヨーカドー店が世界売上ランキング1位をキープしているといいます。その原因は徹底した市民の消費生活の調査にあったことを聞きました。一軒一軒の冷蔵庫の中をみて歩き、ヒヤリングし、消費性向を調べあげたといいます。郷に入れば郷に従う。この見本を見せられました。労務管理も経理も教育研修も中国人自らにやってもらうことも重要らしい。

怖いことです。現実を知らない、ということは。

 国益を最優先に外交を展開する模様は、つい先日のオバマ大統領の東南アジア歴訪でのニュースでも伺えます。
 テレビを通じて、なかなか中国もアメリカもしたたかな物言い、だと素人庶民で
分析オンチの僕さえも思っています。

今回の勉強会に行って、百聞は一見にしかず、実際に現地の人々に触れ合い生の情報を聞くことができただけでも、随分と中国通になったような気がします。少なくとも来年中には日本を抜いて世界2位のGDP大国になるのは確実です。
何にも知らない平穏、無知の平和はそれはそれとして幸せでしょうが、無知はあらゆるチャンス逃がすだけでなく、あらゆるリスクも同時に負っていることを
改めて感じた次第です。

 知らぬが仏、怖いもの知らずでは”行け行けどんどん!”これでいければ世話のない話です。せいぜいこの勢いもつかの間の命ですね。
敵を知り己を知らざれば百万の兵を得たり・・と同じと、の言葉を少しは意識することがあってもいいですね。

2009.10.30

秋の夜長
 11月となると陽が暮れるのが随分と早いですね。

 夕焼け小焼けで 日が暮れて
 山のお寺の鐘がなる お手てつないで
 さあ帰ろう カラスと一緒に帰りましょう♪♪

 こんな牧歌的でのんびりとした風情が懐かしく思い出されます。
 そういえば童謡の内容が、今の小学生には分からない、と言いますね。

 ♪♪たきびだ たきびだ おちばたき 「あたろうか」「あたろうよ」
 きたかぜぴいぷう ふいている.【焚き火】

 ♪♪静かな静かな里の秋 
 おやどに木の実の落ちる夜は 
 ああ母さんとただ2人 
 栗の実にてます 囲炉裏ばた【里の秋】
 
  にいたってはさっぱり、ちんぷんかんぷん。。
   要するに「焚き火」も「囲炉裏」もイメージがつかめないんです。
  でも無理なからんですよね。多分今の若いママさん、パパさんも
  このしんしんとした秋の静けさも 秋の曲が織り成す美しい情緒も
  ピンとこないのではないでしょうか。
   社会の構造変化によってあらゆる生活観が変貌した現代、
  春夏秋冬の美しい日本の風情を強く感慨すること自体、・・・
  滑稽なことかもしれませんが。。。  

  秋陽のつるべ落とし、田舎育ちの僕には刻々・・真っ赤な夕日が山間の稜線
  に沈んでいく様は、今でもはっきりと脳裏にこびりついています。
  山々の濃い鉛色の稜線に、
  もの寂しい朱色の陽炎が吸い込まれていく。。
  晩秋の夕陽はそんな哀しさ、はかなさを語ってくれてますね。
   
   しかし秋の夜はこれからが長いのです。夏なら午後5時過ぎても十分、日
  焼けしますよね。女性なら日傘や帽子、日焼け止めクリームは必須アイテムで
  す。
  早々と家路につき夕ご飯食べて、さあもう寝よう、という年寄りモードも晩秋から
  冬にはちょくちょく現れます。
   ちょっと油断というか気が緩むと何することなく、だらだらとこの秋の夜長を過ご
  してしまいがちです。  
  
  そこで、一大発心。仕事、教養、体力づくりのバランスを考えた習慣を義務
  付けることにします。夕飯、お風呂、犬の散歩は生活上先ず欠かせません。
  その他の時間をこの3つのバランスで配分する。。どんな短い時間でも3つに分
  け、均等に使おうというわけです。
   例えば2時間あるんなら40分ずつ
   ”仕事をする”
   ”教養を身につける”
   ”ストレッチやジョギングをする”
    という具合なんです。
   どうですか。細切れ過ぎてしんどいですね??。このこと自体、意識するのが
  ストレスになるかも、ですね。??
  でも習慣になればこのパターンもまた楽しからずや・・に。
  うっ!そう、もっていきたいです。  
  
  そんなことをわが心の奥静かに誓って、今夜からスタートしようというわけで
  あります。人間、最後の最後、ご臨終に至るまで成長し続けたい、と思いなが 
  ら・・・いやはやそう考えることで何とか今から呆け封じを心掛けないと、という危
  機感からでありますよ。
  早速、読みたい本あれこれ、買い込んで早々と家路についたのでありま
  す。
  
  が、果たして・・・  

2009.09.23

シルバーウイークも今日が最後となってしまいました。皆さんはこの5連休、楽しめましたか。僕は前半、異業種の方々との勉強会で中国大学院生のパワー溢れる向学心やしっかりした心根エキスに触れ、刺激を受けたスタートでした。

中盤は両親のお墓参りに帰省しました。豊岡というところです。皆さんご存知でしょうか。そう、コウノトリです。随分前のブログでも書きましたが、なかなかいいところですよ。何がいいかって?。全てです(笑)!。でも皆そう思ってますよね。自分の故郷を悪くいう人はあまりいませんよ。いてたらチョー変人です。どっか心神が屈折しています。ひとは年とともに懐かしさが合い持って故郷の長所を引っ張り出すものですからねえ。

お彼岸でのお墓参りはとても久しぶりのことでした。但馬の緑深い盆地にも黄金色した棚田に鮮やかなや彼岸花の赤がマッチして故郷の匂いが体全体から吸収され、とてもすがすがしい気になりました。整然とした里山風景を見て、身も心も洗われる気持ちになります。

お彼岸では先祖をしのび、自分が今あることに感謝し、自らの精進を誓う大事な仏教週間だと言われます。僕の実家は曹洞宗の寺院です。すこしPRになりますが、最後にその「徳養寺」をご紹介させていただきますね。
 墓参を終えると何か胸のつかえがスーと引くのを感じるから不思議です。私達は愛する亡き人を供養することをついつい日常の喧騒のなかで忘れているんですね。やはり毎日、うちの中にあるお位牌には手を合わす習慣は大事だと改めて思いました。

今は僕の実兄が住職をしているのですが、その本堂に置いてあるパンフに目が留まりました。「同時というは不違なり・・・」となんだか難しい教えの解説です。要は私たちは何かと繋がりを持っていて、それは人であったり、自然であったりします。だからこそ人を敬う心や自然を大切にする心を忘れたとき、むやみに人と争ったり、自分の都合だけで自然を傷つけてしまうのです。。。との「同事行の行い」を解説したものらしいのです。
折りしも僕の高校時代の親友が3人、訪ねてきてそのパンフを持って帰ってくれました。
今でもずっと続いている親友たちです。

 連休、後半は来てよし、帰ってよしの孫娘の来訪とあいなり、ほとほと疲れました。飛んだり跳ねたり、速射砲のごとくしゃべったり、なんであんなに元気なんでしょうね。命の流転、老齢化の寂しさ、わびしさを感じてしまいますよ。ほんと!。。そしてようやく自由な時間を自分でくつろぐことができる至福の日が最後。ウキウキしかも落ち着かないなんとも妙な午前中です。。。

ようふくざん邀福山 徳養寺
 ●所在地  668-0003兵庫県豊岡市江野1496
 ●本尊【写真】   胎内佛聖観世音菩薩  胎内には佛釈迦坐像が鎮座
 胎内佛聖観世音菩薩は、授子宝、安産、心身安泰 家内安全 祈願成就を授かる 秘宝として信仰されています。
 
 大仏師職法橋左京作の胎蔵佛で600年前の作といわれています。円満なご面 相、蓮華台座の精巧さ、さらに胎内佛釈迦坐像の尊厳さは県下でも珍しい仏様で す。
 境内にある鎌倉時代の妙見大菩薩宝篋印塔は、天台宗寶光寺(文永8  年、1271年 、比叡山延暦寺講堂修造料所)の旧蹟地にあったものを昭和35年 に移したもの です。毎年例祭が賑やかに行われています。 
            
 この寺の前身は豊岡市五荘地域 江野の奥、通称「山寺」という地にあり、天台 宗寺院の一つであったが、文禄6年(慶長2年・1597年)現在地に移築され「徳養寺」と改名、同時に曹洞宗に改宗されました。
 ●現在、豊岡市は、幸せ(赤ちゃん)を運ぶ鳥「こうのとり(特別天然記鳥)」 の野生復帰活動で全国的に有名です。
 
  ここ徳養寺本尊が胎内仏というところから、子授り観音として、 地元では親しまれています。安産と産後の安穏・子授かりを祈って参詣する特  に女性の信仰を集めています。
 ●アクセスは、兵庫県豊岡駅北西約7キロ江野バス停右折すぐ。
http://www.e-shops.jp/local/lsh/an/28/5798459.html
 徳養寺のお問い合わせは、℡0796(23)0840まで。現住職 岡本 肇也和尚
徳養寺と江野に関することは、http://www2.city.toyooka.hyogo.jp/edu/school/toyookakita-jhs/kyodo/21gouno.html#anchor5302

2009.09.08

5S活動のパターンセッターは、皆さんご承知の”整理”ですよね。頭の中では整理をすることがどれだけ大事なこととか、十分、分かってはいますが、これがまたなかなか一つ縄ではすまないのです。
 ある会社で不要物を捜し、それを捨てるときの作戦”赤札張り”をやっていただいたことがあります。未使用の設備や在庫品を赤札の対象とする例の整理の手段です。そのときの今でも、記憶にあるこんなエピソードがあります。
副社長という立場の女性経営者が、急にむくれて怒り心頭、この赤札張りに猛抗議をされたのです。もちろん整理をめぐる5S活動の趣旨、その方法、他部署の素直な発想にこそ、「ものの整理」を判断するヒントである、との心構えも彼女をはじめメンバー全員に学んでいただいた上での赤札張りであったのでした。
 多分、他部署の不要物探しパトロール隊が土足でどかどか自職場に踏み込んできて、次々と赤紙を貼り付けていく様をなんと無礼千万な行為だと許せなかったのでしょうね。

 
会社組織にいると自職場では「常識」とされる行いが他部署の者にはなんと非常識な振る舞いとして映ることがよくあります。他の人が自職場をどう見ているのか、研修の際にもよく行う「部署間イメージ交換」は、本来やらなければならない役割使命を虚心坦懐、掘り下げるときに効果があります。赤札を張る人は「黄札」は持っていません。また使ってはいけないのです。とにかく赤鬼になって貼る作戦なんですね。

 
でもこの女性副社長のように、そもそも論を通り越して「赤札パトロール」をあたかも債権者の取立てもどきに見立ててしまうものかもしれませんね。
 他人がどう見てもこれは不用物(粗大ごみ)だろう、と判断しても当の本人には宝の山であったりするのはよく理解できます。一番整理できないのが自分の机の中なんですから。古今東西、整理整頓こそ、”分かるができる”に程遠いものはない、とも言えますね。

 
最近、あることでお年寄りの自宅を大掃除することがありました。まあ、よくもここまで物をため込んだものか、と部屋の様子を見て唖然、愕然、驚嘆のきわみでありました。なにしろ昭和の新聞雑誌から衣類の山までとても手の施しようもない有様。。
 しかしこれとて僕にとってはゴミの山に映ろうと当の本人からすれば思い出いっぱいの宝の山かもしれません。昔の人ですから「ものを大事に」という教えが徹底しているでしょう。それぞれの”もの”には彼女の深い情けも入っているでしょう。
強制的に捨てさせることもできません。かといって”もの”が部屋を占領し、部屋の主人を追いやった生活を続けさせるさせるわけにもいきません。
最近、独居老人が不要になった長年の生活用品に埋もれて、身動きのできないほどのゴミの山に下敷きになっている様子が報じられていますね。大抵のお年寄りは、いつか元気なうちに整理すればいいわ、との思いでついつい放ってしまう。体も思うように動かなくなり、大量のゴミに埋没してしまうようになると考えられます。

そんなかんだで、僕の中でちょっとだけ”整理をする”ということを考えてみています。
整理整頓が大の苦手である自分が言うのもおかしいのですが、これは意識してかからんとあかんな!と思うことがあります。
「ジャスト・イン・タイム」
「シンプル・リッチ」
という、心の整理です。
 前者は、例のトヨタ看板方式で有名ですよね。必要なものを、必要なときに、必要なだけ持つという生産活動の行動理念です。後者は10数年前、僕の愛車スバル・ビビオのイメージビデオのコピーでした。美しい北欧の金髪女性が、レンガを張詰めた通りをビビオに
乗って、軽快に買い物に出かけるシルエットが忘れられません。皆さん、イメージ想像できますか。僕だけのストーリかも(笑)。でもいいんです。

人間、確かにどんなに嬉しいことや楽しいこともかなた向こうの出来事として忘却してしまうのが自然なのではないか、と思うのです。そしてシンプル・リッチに過ごすことがとかく大事なことなんではないか、と思うようになってきました。
忘れてしまうこともまたよし、だから今をせいいっぱい楽しんだらいいんじゃないか、と。。。写真の1枚ぐらいは撮りますがね。大切なのは”もの”ではなく
嬉しい・楽しい・悲しい・寂しいに代表される人と人との悲喜こもごもをしっかり脳のひだに刷り込んでおくことではないでしょうか。心に響き、感性にぐっときた生の記憶をなるべく余韻として残していきたいです。
そしてそんな体験の一つ一つが、生活に潤いと余裕をもたらすシンプル・リッチな行き方につながるのではないか、と思っています。
ものの整理ということを強く考えさせられた大掃除週間の学びでした。

2009.08.23

朝夕、涼しくなってきましたねえ。そりゃあもう8月も終わりですもんね。
昨夜は地蔵盆ということで、団地の銀座通り(笑)にも提灯をぶら下げた夜店がいっぱい。色とりどりの浴衣に身を包んだ子供たちの黄色い声がわが家にも夜遅くまで聞こえていました。
 夜店といえば、やはり金魚すくいですよね。でもなかなか上手くすくえない。あっという間に小遣いが夜店のおっちゃんに吸い取られル。こんな苦い思い出が昨日のように思い出されます。
見かねたお母ちゃんが見本を見せてくれて、やっと1匹、2匹ととれるようになったものです。
 
 幼少の頃は、親に手を引かれていく夏祭りも、成長と共に同級生や近所の悪餓鬼どもと出没するのが楽しみになりますね。色気づく中学生ともなるとお目当ての女の子の注意を引き出そうと、涙ぐましい努力をしていたのがおかしく、今でも顔がにやけてきますよ。
 それが高校時代ともなってきますと、ひっそりと女の子と示し合わせて2人で男友達の前に登場する、この優越感がたまらなくなります。えっそんなん僕だけ・・。とてもとても手をつなぎながらなんて、そら恐ろしいことはできませんでしたが・・・。「一生一大のお願い。。お願い。。」と頭を下げたうえでの友情出演を了解してもらったことだけなんです。彼女にしてみればいい迷惑だったでしょうね。きっと。

 
 友達のイメージは、年とともに変わっていきます。皆さんもきっとそうでしょね。
男性として、結婚し家族を養い、子供も独立、やがて夫婦2人の生活に戻るときになってうちには妻という友達の存在に気づくことがあります。一緒に、人生谷あり、山ありの苦労を歩んだ「戦友(ソウルメイト)」とでもいうのでしょうか。
 
 松方弘樹が奥さんの仁科明子と別れた名せりふを僕なんぞはいまだに覚えています。詳細は忘れましたが、内容は、確か(多少の僕の造語はご勘弁を)
・恋愛時代は熱情、
・結婚前後の激情、そして合体・・、
・子育て時の暖かい友情前期、
・子離れどきには互いの尊重や信頼をベースにした友情後期、
・定年後は寂しさを思いやる同情、
・コミュニケーションが断絶するとなると諦情(あきらめ)
・後期高齢年齢となると憐情(憐れみ)に変わり
・そしてついには足腰動かぬ年齢における慈悲の情け(感謝とざんげ)
 
 ムっ! この変貌・・・。
 まっ、言い得て妙なり、と。

 夫婦の間はともかくとして、男性同士もやはり友情は変貌していくものと思っています。
まだ自信も生き方も定かでない学生時代や独身のときは、とにかく一緒にわいわいがやがやと寂しさを紛らわしたり、”あほ”なことを言い合って互いの結びつきを確認したりしていましたね。(同類合憐れむのたぐいで群れあう)
 結婚式にも多くの友達を招待していました。でも今、60を過ぎる齢になって、付き合っている友はたった3人だけですよ。

 
 少し前の産経新聞にこんな詩が載っていました。僕が友に求めたり、またこういう間柄が本当の友達ではないか、と日頃から思っていたことです。随分、符合していたので、大事に覚えていた詩です。

「言ってくれるようなあ
 痛いとこつくよなあ
 でも温泉の様に じんわり効いてくる
 何故かほろりと するんだなあ
 ああー
 そんなあんたにであった おかげで嬉しいよ
 なんとか頑張れたよ
 もうすぐ定年迎えます」

なんか、ぐっときません?
みなさんにとっては、友達はどのような存在なんでしょうか?
それぞれの人生、それぞれの暮らしともに、きっとそれぞれの友達がいるんでしょうね。

2009.08.13

いよいよ毎年の日本の夏行事、お盆休みですね。
皆さんはどのようにお過ごしですか。
ご先祖さまをご自宅にお迎えする13日~15日、僕も子供をつれて故郷のお墓参りに行くのが恒例になっていました。
でも子供たちが成長し、学校を卒業して就職、そして結婚。・・・。
となると今度は僕の家が故郷に変わってしまいました。
孫やら親やらが自宅に集まって、真夏のひと時を会するっていうのはやっぱり、いい日本の伝統美といえますね。夜には、小さな庭に盂蘭盆会の蝋燭の灯りをともし、亡き両親やご先祖様の思い出話を交わす。そういう家族の絆を再認識するのがきっとお盆なのでしょうね、

またちょうど、1年の前半期と後半期の切り替え時にお盆休みがあるのも一つの区切りでいいものです。
僕のところは自営といっても個人事業所なのですが、潰れることなく事業が継続できている喜びをひとしお感謝しています。感謝と同時に後半期に向かっての覚悟にパワーを注ぐことができるような夏休みを過ごそうとひそかに思っています。

でもとかく意識すると、やりたいと思っていることが気にかかり、気負いで空回りということが僕にはよくあります。今回も立松和平著「道元」下巻を買っては見たものの一向にはかどらない。予定は未定。計画倒れ。・・・いつものパターン。ああ、やっぱり僕は意思が弱い・・・と。

最近、少しだけ吹っ切れたとというか、自分にいい聞かせていることがあるんですよ。つもりやはずは、人の常。「人間、本来無一物」ってね。実は僕の実家は、小さな禅寺なんですが、庫裏の客間床の間に「本来無一物」と掘られた炭竹が吊り下げられています。

じたばたしなくても、所詮、世の中、何もないんだよ。今あるように思うのは人間の欲からくる幻想でみんな錯覚の代物ですよ、ということらしい。本当の意味は定かではないが、たしか僕の中学3年生のとき、田舎の小さな集落の中では、珍しく上品でいかにも教養人を思わせる老人が教えてくれたのです。白髪に長い白ひげが似合う檀徒総代という方でしたので子供心にふ~んそんなことか。と妙に感心した次第。

平凡でも当たり前のことをごく自然に行う、突然の珍客にも惑わされない。夕べにねぐら訪ねられるに共に捜し、朝げに教えを請えばこれを授ける。肝っ玉が座っていてこれぞ”Theグレイター”っと思わず羨望してしまいます。文句なしかっこいい。余裕というか、人としての優しさ、これってやっぱしキャパシティの広さ、ですね。

これが簡単なようでなかなかできない。一つ行えば、必ずああでもない、こうでもない、とへんてこな自省が入る。自省といえば聞こえがいいが、なんのこっちゃない。出るのは愚痴ばかしなんです。人生後悔ばかり、とは文豪、有島武郎の句ですが、反面、後悔先に立たず、一歩、前へ。踏み込めば道が開かれる、との思いで今年、後半を臨んでみようと考えるお盆休み前夜でありまする。

皆さんもよい夏休みを・・・。

2009.07.20

せっかくの連休というのに湿気でムンムンの日曜日。高温多湿の天候では気力・体力・行動力の全てが完全に麻痺、見るもの聞くものにほとんど反応しなくなってしまいます。とにかく体中が重い。頭はぼんやり、視界も黒い霞がかかって先が見えない。とにかく鉛のように重い頭のせいで背骨が前のめりに曲がってしまう。自分の細胞エネルギーの全部が湿った外気に吸い取られるようだ。声を出すのも苦しいし、体の皮膚という皮膚にヤモリのような吸盤がくっついてヒクヒク僕の動きを止めています。足には朽ちかけた落葉が何枚も付着(濡れ落ち葉です)しているのです。こんなブルーな気持ち、僕だけでしょうか。。  とにかくしとしとが嫌なんですわ。降るなら豪雨がスカっとしますね。というわけで今日は自室で引きこもり、来週の仕事の準備や昼寝と決め込みました。

 皆さんの3連休は、いかがでしたか。
学校は、夏休みに入りましたね。夏休みといえば朝顔を思い出します。我が家でもプランタに種をまき、いま屋根の桟につるが延びていっぱいつぼみをつけていますよ。小学生のとき絵日記や理科の観察記録で随分とお世話になった花です。ラジオ体操が始まるのが朝6時半。赤、白、ピンク、紫、青の大輪が涼しいうちに競って咲いていたのが懐かしいです。大人になってもあの頃の同じ気持ちで観賞できる日もあと少しです。

 花を愛でる、気持ちをもって立ち止まることは日々の喧騒を忘れさせてくれる、ひとときと思います。
 一昨日の夜、久しぶりに竹馬の友と会いました。彼曰くに「人間、みな醜い。欲の塊や。もう人間不信になるわ・・・」
苦労した彼だけに利用だけしてハイ、さようならとする経営者が許せない、のも分かるような気がします。
しかし利用したり利用されたりもまた人の常。人生は一つして無駄なことはない、というのも本当ではないでしょうか。

 僕は、”大地百花”という言葉が好きです。生活のなにもかもが花という意味だそうです。なにやら父が禅語のひとつだとして小学生のとき話してくれたことを思い出しています。毎日繰り返される当たり前のことが大切だと禅では「作務行」を説いています。
この当たり前のことが皆、花だとしたらそこで充足する思いをもつことが大事かもしれませんね。さて今年の朝顔はいったいどんな色合いで僕を迎えてくれるのだろう。

2009.07.06

久しぶりにブログ書きます。どうも社労士の立場で書くっていうのは少々気構えてしまいます。そこでもうやめました。一人の60代男が日々の暮らしで気づいたこと、聞いてもらいたいこと、喜怒哀楽こもごもを何でも綴ってみるのもまあっいいかな、と思うのです。
というわけで今回、一番、訴えたいのは、最近僕の周りに「自分だけやないか!」、と叫びたくなるような、めちゃ、自己中人間がもう加速度的にくっついてきているんです。

皆さんは、携帯電話で相手につながった時、「今、よろしいですか」というマナーぐらい持ち合わせていますね。(本当ですか?ひょっとして?む。む。。)
 自分と相手の関係が、先読みできない人が増えましたねえ~。頼みごとや、お願いごとばかりではありません。むしろいろいろと教えてくれたり、親切心で聞いてきてくれたりする場合もちょっとした第6感のセンスが必要なんですね。たしか太宰治の「走れメロス」と思いますが、厳寒にさ迷っていた男が遠くにぼんやり民家の裸電球の灯りを見つけたのです。空腹で倒れそうになっていた最後の元気をふりしぼり、やっと辿り着いたそこには楽しそうな家族団らんの情景でした。「今、ここで声をかければ、子供たちがはしゃぐこの家族の団欒は、見知らぬ珍客で凍り付いてしまう、そんなことはできない。」といってまたぼつりぼつり行過ぎてしまうという話です。ま、ここまで相手を慮るまでもないと思うのですが。人間関係上、こうしたらこうなる、という第6感は、ある程度の年齢になればやはり身に着けてもらいたいですね。ちょっとしたマナーに欠けると全て迷惑に変わってしまうことが多いいのです。

 ちゃんと良い頭があるのですから難しいことはないんですがね。相手の状況を想像するセンス、う?相手が感じる快・不快の先読み、いい関係づくりの感受性みたいなものが少しあればどうってことは無い。
以前、僕はわが家の独身貴族でいる息子に激怒して切れたことがたびたびあった。
ことの理由は、自宅に帰ってくるのか来ないのか、さっぱり連絡が無い。訳あって息子と2人暮らしが続いている折、父子家庭での家事はなかなか大変。夕ご飯が要るのか要らないのか。帰宅するのかしないのか。最終電車にちゃんと乗っているのか。風呂のお湯は流していいのか。等々・・の基本的生活習慣のいいかげんさに爆発したのだ。
要するに生活のリズムが乱される。呼吸も乱れる。副交感神経が高揚して寝つきが悪くなる。・・・。ということで”切れる!”のは必然的帰結と相成る。
息子ならばざっとこんな感じだが、他人となるとこうもいかない。我慢するか、「なんと気がつかない人なんだろう」と、そっとこちらから距離を持つ。俗に言う引いてしまうのだ。

僕は、最近、人の真意を聞くことの難しさを考えざるを得ないことが多くなっている。真意を伝えるにはコミュニケーションの手段を駆使するのだが、さりとて言葉という言語的手段は、それを発したときから大いなる錯覚と思い込みにとらわれてしまう。
コーチングの手法で、正確さを取り戻す質問の演習がある。
理解している言葉と錯覚している(思い込み)の言葉を特定の質問で区別していくのだ。言葉巧みに熱弁を奮っても言葉は、削除→ 歪曲→ 一般化というプロセスをたどり、言いたい最深部の10%も伝わらない、とされています。皆さんも経験されてませんか。
 一方的に話していい気になっている高齢者も若者もコミュニケーションのマナーをもう一度、身につけてもらいたいものだ。
これは最近、つとに考えていることだが、自己中人間へはこちらの方からのガードが必要である。
一つ、PTOに応じて自分の意思をはっきり示す。(相手が厚顔無恥であれば、お門違いということぐらい言ってのける勇気を持つ)
2つ、自分が理解し納得できるまで質問する。(うるさがられても、分かっている振りして尋ねないほうが失礼)
3つ、相手の言葉よりも表情や態度、声から真意をつかむこと。(言っている内容より
その言い方、本気・真心・言葉の選択の間や思考のプロセスなどを感じる)

自己本位の人間には、最初から人を思いやる”友愛(流行ですね。)の気持ちが歪んでいるのですから、こちらも意に沿わない付き合いには「ノー」とはっきり言えばいい。
心底、傾聴してあげられる人には、とことん愛を持って。しかし自分の都合で、自分の不安やコンプレックスでこちらのアドバイスが欲しい、というのであれば、それなりにマナーは持ってもらわねば。

コミュニケーションギャップがこの先、ますます大きくなる予感がします。しかしそのギャップを埋めることに努めない関係は、あらゆるところにトラブルが付きまとうもの。
こういう連中とは、仕事は絶対一緒にやっていけません。間違いないです!家庭でも、友達、恋人・・あらゆる関係が錯覚の上でしか成り立たないとすれば何を信じて過ごせばよいのか。寒々しますね。
 今夜も、NHK「天地人」を見ていた。鎧兜に愛を高々に掲げた男、義を戦国乱世で貫いた直江景勝、ドラマ仕立てであるが、実にかっこいい。愛に支えられた行動を取れば、生き延びるだけでなく、勝利するだけでなく、成功するだけでなく、それ以上のことができる。人たらし豊臣秀吉の人海操縦もひとたまりも無い。
 こういうドラマの主人公に憧れ、久々に高僧禅師の軸を眺める人間、ああ、この体たらく、凡夫、煩悩にとらわれ苛立つ己の欲ふかさ、やっぱ僕も所詮、自分本位のしがないおじさんなのか。かっこよく生きたい、と思うことがつまり囚われ。不安や恐れや攻撃やコンプレックスの生き様であろうに。

2009.01.23

2010年がスタートして早、もう1月も過ぎようとしています。本当に早いですね。
皆さんのスタート・ダッシュはいかがですか。
「無常たのみ難し、知らず露命いかなる道の草にか落ちん、身すでに私にあらず、命は光陰に移されてしばらくも停め難し、紅顔いずくへか去りにし、たずねんとするに証跡なし、・・・・」
なんやらややこしいフレーズで恐縮です。中学の頃、よく親父について回って寺院の行事などで拝んだ読経の一こまを思い出しました。

その主旨は【逝く河の水のように時は刻々に流れてやまず、まことに頼りないものである。
過ぎ去ったときは再び戻らず、不確かな未来は、他人と同じくあてになるものでない。
自分の身でさえ自由になるものでなく、いつの間にやら年をとり、若さが失われて行く。かっての紅顔の美少年の面影はどこにあるのか、跡形さえ残っていない。】
とのことであるらしいのです。

このような無常観をしみじみ考えてしまう月日の早さですね。毎年、めぐるめく春夏秋冬を過ごし、年を重ねています。そして、僕は一体何をやってきたんだろう!と今までを振り返ることがあります。お正月と大晦日の繰り返しです。
そのときの自身の整理付けが人さまざまで面白いものです。
俺は家族が幸せに暮らせるように一家の大黒柱として一所懸命、稼いでいるんだ、というのがこの世の殿方の最大公約数でしよう。一方、家事と仕事を両立させながら家族を笑顔いっぱいの団欒に演出し頑張っているご婦人たちも大勢いるでしょう。

 
 私たちは○○のために○○するということをよく言います。
人の行いの意味づけというのは、どうもこの○○のためといういう大儀がなければならないのでしょうかね。国家国民のために私は○○をする、という弁士は確かに勇ましいのですが、どこか胡散臭さも垣間見られます。この何々のためという魂胆が曲者のような気がしてなりません。(きれいで耳障りの良い言葉の裏には、魔性の誘いがあるって言うじゃないですか。)
 という僕もよく○○のためという前置詞をおいた行動でなければ重い腰を上げられないことがよくあります。
 でもこの前置詞付きの行動には、少々無理があるという気がしています。そして自分を奮い起こさせる鞭の役割しかないことが少しづつ分かってきました。所詮、あまり気が進まないことをなんやら理屈をつけているんじゃないか。長続きもしないものだから何かと意味づけや理由を求めているんじゃないか。

それよりもしたいこと、せずにおれないこと、立ち上がらざるを得ないことをひたすらに行う、この正直な自分自身の表れのほうを大事にしたい、と考えることにしました。若いときはそれなりに正義感もあったように思っています。年齢とともに気力・体力・知力も変わっていきますね。でもそのときどきの身の丈にあった「できるもの・したいもの」をやっていければ幸せなことでしょうね。

つい先日、かねてからの自病が進んでいることを医者に告げられてしまいました。いつも意識のどこかで病との葛藤があったのですが、これからの命の選択は正直な自分との対話の中から見つけていこう、と思います。
 少しくらい道理に合わなくてもいいのではないか。正しくなくてもいいのではないか。後ろ指をさされても自分が楽しければいいのではないか。そういう気持ちで、ときには着膨れした妄想やちょい悪親父も楽しみながらともかく健康で元気に、という感じですね。

幸いこれからは楽しみがあります。2月、3月と陽はどんどん長くなってきます。なんとも活動時間が明るいのがいい。この陽の明るさは8月のお盆までは続きます。1月から8月までを太陽の季節、9月から12月までを月の季節と勝手に解釈しています。ムーンシーズンが少し短いのですが、発光と充電の比率は2対1ぐらいの比率がちょうど按排がいいのです。

なんやらまた自戒自伝もどきな話になってしまいましたね。1月が終わり、2月は逃げ3月は去る、って言いますよね。まさに光陰矢の如し。要は世の中で最も確かなものは、いまここの一点だけだという思いを再認識してみたいのです。仕事でも恋でも、このいまここの一点に全エネルギーを集中し蓄積してこそ、そこに事実上の成長や実現がもたらされるのではないでしょうか。

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