オフィス人事教育のふれあいブログ

2010.03.07

http://www.officejinji.jp誕生月に思う。
 3月9日で僕は62歳を迎えました。正直、よくぞまあここまで生き長らえてきたなあ、との思いになるにはまだ少し早いと思っています。心は高校生とは言いませんが気持ちも衰えていません。むしろ若年寄には負けていません。好奇心も旺盛です。人と感動の絆をつくりたいと切に思っています。人様のお役に立ちたい気持ちも漲っています。同世代の写真を見ても若い方だ、と内心思っています。現役の仕事がまさに趣味であり、これ以上の幸せはないとの思いもこれまでとなんら変わっていません。

 しかし階段を駆け上がったりすると心の臓が根を上げます。休日に土方をすると1週間きっちりと筋肉痛が続きます。最近とくに顔の豊麗線のたるみが目立ちます。頭の髪も疎状態に拍車がかかりひどいです。若い女性が同じ顔に見えてきます。まだまだこれからという意欲と気力が途切れることも無きにしも非ず。仕事が趣味から日替わり気まぐれ趣味に気をとられています。

 楽しい、嬉しい、わくわくする、ウキウキする、フットワークが軽やかになる、そんな前向きでアグレッシブな気分と反対に重苦しくどんよりと曇った気分のときが多くなってきました。自分でもいやです。年とともに上品な顔になりたいと思いますが、ここ数ヶ月の表情は精気がありません。口がへの字になって陰気です。ひがみっぽく自信が萎えてきています。物事に悲観的です。本来の天真爛漫さが微塵もありません。かなり重症です。

 でも心当たりははっきりしているので、これは僕自身の心の持ち方次第なんです。なにか新たな目的をもたなければ憂鬱な気分に支配されそうです。
そこでこれではいけない、と一大発心。行動を変える一つの規制を試みることにしました。といっても大したことはないのです。労働判例研究セミナーの受講を申し込み、毎週木曜日の夜、勉強することにしただけなんです。勉強なんか時間をやりくりし独学でやるもんや、とこれまで考えていました。しかし諸事、気合を入れなければ持続できない個人的な弱さ事情があって今回は毎週1度のスクーリングに通うことにしたのです。ちょうど事業譲渡や会社分割など最近の企業組織再編と労働関係など新しい判例中心のカリキュラですので、年度前半期からの学習目標に楽しみができました。

 何か好きなことに熱中したり、多くに人と出会い関わって自分を磨き上げたいと考えて行動している人は、やっぱりどこかが違いますね。迷いがないというか物事に素直で上昇志向です。心神も健康です。反面、僕のように寂しいのもイヤ、それでいて煩わしいのもイヤ、というわがまま放題の偏固爺さんは、始末が悪いもんです。人格形成にはときどき場所を変えたり上昇気運の人たちに混ざってパワーをいただくことが必須です。ちょっとオーバーですが、共にいる喜びや愛、それに夢がなければ人は生きていけない、ということが今更ながらも新鮮に実感されます。共にいる喜びが愛と素直に思うこと。そう思うことで、随分本音で意思を伝え合うことができるようになるんでしょうね。きっと。

 人は自分が成長する程度に応じて相手を尊重することができる、とは加藤諦三氏(精神衛生学)の言葉です。偏狭な自分には、この言葉を肝に銘じ「自分が自立する程度に応じて相手を自由にできる」との度量を備えるよう戒めています。それにはまず自分自身を好きにならないといけないですね。自分を認めない者には笑顔もないし周囲を暗くしてしまいます。

 今回のバンクバーオリンピック、皆さんはどのように見ましたか。選手に気負いがなく晴れやかな表情に僕は好感をもって楽しませてもらいました。頑張ってきた自分を素直に褒めて、成績如何に関わらず悔いがない、と旨を張る屈託のない姿がとても印象的でした。自分を支え励ましてくれたコーチやファンそれに家族の期待に応えるためにさらに切磋琢磨する。その認(め)→助(けられ)→励(まされ)の好循環がやる気の基なんでしょうね。そういう元気で輝いている者には、内から漂う魅力があります。周囲もその者を放っておけなくなります。応援したいネットワークが自然に生まれます。
 誕生月を前に、今回、バンクーバーで活躍した日本人選手の晴れやかな感動シーンの数々からもう一度、発奮する勇気を沢山いただきました。感謝です。。{/m_0087/
私のHPは,
http://www.officejinji.jpです。どうぞご気軽に相談ください。

2010.02.07

列島、立春の大雪、日本海側の積雪は26年ぶりといいますね。
 昨日の土曜日は本当にブルブルでした。何か、ざわざわと落ち着かない気分でしたから、北風なか年に数回、お参りする近くの静寂と清浄の浄瑠璃寺に行ってきました。阿弥陀9体仏が優しく迎えてくれました。
わが家の庭にも朽ちかけた紅梅の幹からひこばえが出て、その枝に小さな蕾が一杯ついています。寒椿も今やわが世の謳歌とばかり咲き誇っています。
夜には床の間に、赤富士飛来鶴という正月用の軸から梅鶯に変え、少し早いですがお雛様飾りも用意しました。
 少し前までは誕生月3月が1年で一番好きな季節でした。今はやはり2月ですね。凛とした寒気の中で近づく春の訪れを楽しむには、ゆっくりした準備ができ、余裕のある今の時期が嬉しいです。

瞬間瞬間にパラパラと目の前の風景や出来事が移ろい過ぎ去ってしまうことが余りに多いように思います。そんなとき非日常性を求めて日頃のバランスを微妙にコントロールし英気を養います。ドライブに行って普段、見たり感じれなかった自然に触れ山野草や小鳥の生命力に驚きます。コンサートやライブにスターの感動をもらったりステージの興奮を受けます。読書のなかで人の考えや異文化の醍醐味を知ります。音楽を聴いてホッとするって、という具合ですね。

 悩み、苦しみ、悲しみというネガティブな要素を、少しでも和らげて楽しみ、喜びのポジィティブ要素に置き換え、発散する気分転換は大事なことです。ネガティブに支配されそうなときは、自分なりの切り替えを見つけていくことなんでしょうね。所詮、人に求めることではないでしょうし。。

つい先日、この切り替えができなく、気まずい経験をしてしまいました。まっ いいか。と引き下がられないことがあったのです。とくに信頼していた人から常識論一般論を言われて「それって、ちょっと違うんじゃあないか」と反発してしまったのです。相手が自分のことをよく理解してくれているものとの思い入れ、うぬぼれ、甘えの上での反目です。でもこれがとんでもない自分都合であったことに気づきました。こちらにとって面白くないことでも相手にとっては何もこちらの価値尺度だけで物事、判断してくれているわけではありません。それぞれ事情もあり、こちら立てればあちら立たずのなかでその都度判断しているとのことでした。まっそれ以上の期待は、僕の強要になるかも知れない、っていうことでなんとか鉾を収めました。
コミュニケーションを業務に取り入れている僕としてはこれは大いに反省しなければ、と思った次第です。

人の取り様はさまざまです。そのときのちょっとした感情や欲求で変わります。そんなつもりで言ったのでない。今までの言動を見てて分からんか、と言ったところで既に後の祭りです。
軋轢が生じれば、相手に対するそれ以上の弁解は、もはや語るに落ちます。言葉には意志伝達と感情の交換の2要素があります。で残念なことに両方とも相手の受け取り方次第なんです。
しかしここで思案。。だからと言って「ここは何にも言わず、分別ぶって黙っておこう!」って、まっ、いいかスタイルを続けるとやはりこっちも無理がたたり、良好な関係は持てないと思うのです。それからというものずっと相手への不信感が募ったり変わった奴やなあ、との思いが累積されて抜き足ならぬ嫌な雰囲気にもなりかねません。難しいところです。

そこで自然で、後腐れがなく、悪意の発想がなければ、俺はこんなんで腹が立っている! 君はどう思うか! なんでや? 僕が間違っているか? たぐいの言い合いぐらいは遠慮なく言わせてもらわないとこれまた体内の”汚染マグマ”が高揚し、自浄コントロール装置が機能せず、ストレス弾が炸裂しそうな雲行きになりかねません。
怪我は早いうちに治せ、雨降って地固まる、つていう効用もあるのですから何も遠慮する必要はない。側近と思えば腹も立ち傷もつく、他人と思えば唇寒いが合点もゆく。。その距離感を保つことは難しいものです。頼りも期待もしない、ライトにスマートに・・。窮屈さの微塵も感じさせず。。。

でもそんな間柄ってあるかい!

 第一おもろも何にもないわ。しんどいわ。

せめて自分なりの”これでいいのだ、”とのバカボン風に誘われてみたいものですよ。ほんと

2010.01.03

節目 折り目のお正月
皆さん思い思いにこの1年の健やかな生活を祈りながら一家団欒で過ごしたり、初詣に行かれたりされたことでしょうね。
 僕は、息子一家が孫を連れてきたり、近くの温泉に行ったりして日本のお正月を楽しみ、例年なくのんびりと過ごしました。
年末に買って帰った本もゆっくり読み自分なりの充電にも成功しました。

それらの本にも触発されて、僕の誓った今年の守りたいこと、
先ずは健康。午後12時には床に就く。自然のバイオリズムに逆らう生活はやめる
そして気持ちです。人間は年をとるほど枯れてはならない。いつまでも瑞々しく生命力にあふれていること
の2つです。
 
 早寝、早起きの習慣はだれもがよく知っている健康法の最もポピュラーな実践法です。でもこれが案外難しいのですね。僕も随分、これまで心掛けました。でもできない言い訳ばかりが先に立つ。。11時就寝・6時起床のつもりで取り組んだことは過去どれほどにあったことか。。。そのたびに”ニュース23”ぐらいはみたいとか、やれ友達との付き合いとかなどで夜遅くなることしばしば。。。そのたびに”教養は夜作られる”などと勝手な言いぐさしきり。。
 
さて瑞々しい生命力??これの維持はかなり心して取り組まなきゃあ徒労に終わること可能性大です。しかも僕の心根にあたる問題でもあります。
 ●好奇心が旺盛か?
 ●フットワークが軽いか?
 ●人と出会い話すことが好きか?
 という問いが僕を揺り動かします。好奇心?これはかなり該当します。
あと2つは自分尺度での判断になります。従ってかなり狭い範囲での行動というのが正直なところです。

う~ん ここは苦戦 免れないか。届きにくい小さな声にも耳を傾けるという、人としての誠意も、残念ながらなんとも心もとない。

しかし早く寝るということと瑞々しい生命力を維持することを、実践するにはなにも難しいことではない。そのまま文字通り行えばいいことですね。なにもつあれこれできないこと理屈をつけるほうがナンセンスです。
 
 茨木のり子さんの詩「自分の感受性くらい」のフレーズに、
「ぱさぱさ乾いてゆく心を
 人のせいにするな
 みずから水やりを怠っておいて

 気難しくなってきたのを
 友人のせいにするな
 しなやかさを失ったのはどちらなのか
  
  ・・・・
 自分の感受性くらい
 自分で守れ
 ばかものよ」

 胸にしみる言葉ですね。

現役を突っ走っている元気なお年よりの代表格、中曽根康弘元総理(91歳)がこんなことを言われていた。
「政治生涯は恩やあだなど複雑なものが絡み合ってできている。それを達観するのが政治家の修行だと悟ったね。元気の秘訣は心配しないこと、言い換えれば “何とかなるさ!!”」と、そういえばあの塩じい(塩川正十郎さん)も同じように「3歩歩いたら嫌なことはみな忘れる!!」とのたまわれた。

 あのねえ!
政治家のように厚かましく、ここまで達観できたらせわないわ~。
2010年、お正月のわが”小志”でした。

2009.11.22

土曜日に母校の大先輩に誘われて、ユニバーサルコンサルタント(ユニコン)研究会という勉強会に行ってきました。
急成長を続ける中国の視察報告でした。テレビや新聞では分からない中国ビジネスの実情をありありと聞くことができました。なかでも内モンゴルや天津市、四川省など内陸部の成長が際立つとの話でした。昨年のリーマンショックの煽りで上海市、広東省など沿海部の大都市が低迷しているのと対照的なお話でした。

僕がびっくりしたのは、中国政府による切れ味鋭い国策投資とそのスピードの速さ、大胆な方針です。未開発地域のインフラ整備投資、電気自動車製造、太陽光発電システム導入計画、環境モデル都市計画などその政策の規模といい、戦略的な試みが実にダイナミックなことが分かりました。たしかに共産党1党権力なので意思決定が早いのはうなづけますが、プライドの高さが充分伺われます。環境問題など世界から非難されることを恐れ、いち早く電気自動車やエコモデル都市計画などに総額100兆円以上の投資を決定してしまう中国の懐の深さをまざまざ見せ付けられた思いです。

 私たちはなんとなく日本こそ環境技術は世界のトップレベルであり、次世代産業の育成についてもわが国が一歩、前進しているんだという錯覚をしているのではないでしょうか。また中国に対するイメージもどこかに”目上から視線”をしているところがあるんではないか、という気がしています。

 日系合弁企業が失敗する多くのケースは、このような横柄で偏見した労務管理が原因としていると聞きます。成都市にあるイトーヨーカドー店が世界売上ランキング1位をキープしているといいます。その原因は徹底した市民の消費生活の調査にあったことを聞きました。一軒一軒の冷蔵庫の中をみて歩き、ヒヤリングし、消費性向を調べあげたといいます。郷に入れば郷に従う。この見本を見せられました。労務管理も経理も教育研修も中国人自らにやってもらうことも重要らしい。

怖いことです。現実を知らない、ということは。

 国益を最優先に外交を展開する模様は、つい先日のオバマ大統領の東南アジア歴訪でのニュースでも伺えます。
 テレビを通じて、なかなか中国もアメリカもしたたかな物言い、だと素人庶民で
分析オンチの僕さえも思っています。

今回の勉強会に行って、百聞は一見にしかず、実際に現地の人々に触れ合い生の情報を聞くことができただけでも、随分と中国通になったような気がします。少なくとも来年中には日本を抜いて世界2位のGDP大国になるのは確実です。
何にも知らない平穏、無知の平和はそれはそれとして幸せでしょうが、無知はあらゆるチャンス逃がすだけでなく、あらゆるリスクも同時に負っていることを
改めて感じた次第です。

 知らぬが仏、怖いもの知らずでは”行け行けどんどん!”これでいければ世話のない話です。せいぜいこの勢いもつかの間の命ですね。
敵を知り己を知らざれば百万の兵を得たり・・と同じと、の言葉を少しは意識することがあってもいいですね。

2009.10.30

秋の夜長
 11月となると陽が暮れるのが随分と早いですね。

 夕焼け小焼けで 日が暮れて
 山のお寺の鐘がなる お手てつないで
 さあ帰ろう カラスと一緒に帰りましょう♪♪

 こんな牧歌的でのんびりとした風情が懐かしく思い出されます。
 そういえば童謡の内容が、今の小学生には分からない、と言いますね。

 ♪♪たきびだ たきびだ おちばたき 「あたろうか」「あたろうよ」
 きたかぜぴいぷう ふいている.【焚き火】

 ♪♪静かな静かな里の秋 
 おやどに木の実の落ちる夜は 
 ああ母さんとただ2人 
 栗の実にてます 囲炉裏ばた【里の秋】
 
  にいたってはさっぱり、ちんぷんかんぷん。。
   要するに「焚き火」も「囲炉裏」もイメージがつかめないんです。
  でも無理なからんですよね。多分今の若いママさん、パパさんも
  このしんしんとした秋の静けさも 秋の曲が織り成す美しい情緒も
  ピンとこないのではないでしょうか。
   社会の構造変化によってあらゆる生活観が変貌した現代、
  春夏秋冬の美しい日本の風情を強く感慨すること自体、・・・
  滑稽なことかもしれませんが。。。  

  秋陽のつるべ落とし、田舎育ちの僕には刻々・・真っ赤な夕日が山間の稜線
  に沈んでいく様は、今でもはっきりと脳裏にこびりついています。
  山々の濃い鉛色の稜線に、
  もの寂しい朱色の陽炎が吸い込まれていく。。
  晩秋の夕陽はそんな哀しさ、はかなさを語ってくれてますね。
   
   しかし秋の夜はこれからが長いのです。夏なら午後5時過ぎても十分、日
  焼けしますよね。女性なら日傘や帽子、日焼け止めクリームは必須アイテムで
  す。
  早々と家路につき夕ご飯食べて、さあもう寝よう、という年寄りモードも晩秋から
  冬にはちょくちょく現れます。
   ちょっと油断というか気が緩むと何することなく、だらだらとこの秋の夜長を過ご
  してしまいがちです。  
  
  そこで、一大発心。仕事、教養、体力づくりのバランスを考えた習慣を義務
  付けることにします。夕飯、お風呂、犬の散歩は生活上先ず欠かせません。
  その他の時間をこの3つのバランスで配分する。。どんな短い時間でも3つに分
  け、均等に使おうというわけです。
   例えば2時間あるんなら40分ずつ
   ”仕事をする”
   ”教養を身につける”
   ”ストレッチやジョギングをする”
    という具合なんです。
   どうですか。細切れ過ぎてしんどいですね??。このこと自体、意識するのが
  ストレスになるかも、ですね。??
  でも習慣になればこのパターンもまた楽しからずや・・に。
  うっ!そう、もっていきたいです。  
  
  そんなことをわが心の奥静かに誓って、今夜からスタートしようというわけで
  あります。人間、最後の最後、ご臨終に至るまで成長し続けたい、と思いなが 
  ら・・・いやはやそう考えることで何とか今から呆け封じを心掛けないと、という危
  機感からでありますよ。
  早速、読みたい本あれこれ、買い込んで早々と家路についたのでありま
  す。
  
  が、果たして・・・  

2009.09.23

シルバーウイークも今日が最後となってしまいました。皆さんはこの5連休、楽しめましたか。僕は前半、異業種の方々との勉強会で中国大学院生のパワー溢れる向学心やしっかりした心根エキスに触れ、刺激を受けたスタートでした。

中盤は両親のお墓参りに帰省しました。豊岡というところです。皆さんご存知でしょうか。そう、コウノトリです。随分前のブログでも書きましたが、なかなかいいところですよ。何がいいかって?。全てです(笑)!。でも皆そう思ってますよね。自分の故郷を悪くいう人はあまりいませんよ。いてたらチョー変人です。どっか心神が屈折しています。ひとは年とともに懐かしさが合い持って故郷の長所を引っ張り出すものですからねえ。

お彼岸でのお墓参りはとても久しぶりのことでした。但馬の緑深い盆地にも黄金色した棚田に鮮やかなや彼岸花の赤がマッチして故郷の匂いが体全体から吸収され、とてもすがすがしい気になりました。整然とした里山風景を見て、身も心も洗われる気持ちになります。

お彼岸では先祖をしのび、自分が今あることに感謝し、自らの精進を誓う大事な仏教週間だと言われます。僕の実家は曹洞宗の寺院です。すこしPRになりますが、最後にその「徳養寺」をご紹介させていただきますね。
 墓参を終えると何か胸のつかえがスーと引くのを感じるから不思議です。私達は愛する亡き人を供養することをついつい日常の喧騒のなかで忘れているんですね。やはり毎日、うちの中にあるお位牌には手を合わす習慣は大事だと改めて思いました。

今は僕の実兄が住職をしているのですが、その本堂に置いてあるパンフに目が留まりました。「同時というは不違なり・・・」となんだか難しい教えの解説です。要は私たちは何かと繋がりを持っていて、それは人であったり、自然であったりします。だからこそ人を敬う心や自然を大切にする心を忘れたとき、むやみに人と争ったり、自分の都合だけで自然を傷つけてしまうのです。。。との「同事行の行い」を解説したものらしいのです。
折りしも僕の高校時代の親友が3人、訪ねてきてそのパンフを持って帰ってくれました。
今でもずっと続いている親友たちです。

 連休、後半は来てよし、帰ってよしの孫娘の来訪とあいなり、ほとほと疲れました。飛んだり跳ねたり、速射砲のごとくしゃべったり、なんであんなに元気なんでしょうね。命の流転、老齢化の寂しさ、わびしさを感じてしまいますよ。ほんと!。。そしてようやく自由な時間を自分でくつろぐことができる至福の日が最後。ウキウキしかも落ち着かないなんとも妙な午前中です。。。

ようふくざん邀福山 徳養寺
 ●所在地  668-0003兵庫県豊岡市江野1496
 ●本尊【写真】   胎内佛聖観世音菩薩  胎内には佛釈迦坐像が鎮座
 胎内佛聖観世音菩薩は、授子宝、安産、心身安泰 家内安全 祈願成就を授かる 秘宝として信仰されています。
 
 大仏師職法橋左京作の胎蔵佛で600年前の作といわれています。円満なご面 相、蓮華台座の精巧さ、さらに胎内佛釈迦坐像の尊厳さは県下でも珍しい仏様で す。
 境内にある鎌倉時代の妙見大菩薩宝篋印塔は、天台宗寶光寺(文永8  年、1271年 、比叡山延暦寺講堂修造料所)の旧蹟地にあったものを昭和35年 に移したもの です。毎年例祭が賑やかに行われています。 
            
 この寺の前身は豊岡市五荘地域 江野の奥、通称「山寺」という地にあり、天台 宗寺院の一つであったが、文禄6年(慶長2年・1597年)現在地に移築され「徳養寺」と改名、同時に曹洞宗に改宗されました。
 ●現在、豊岡市は、幸せ(赤ちゃん)を運ぶ鳥「こうのとり(特別天然記鳥)」 の野生復帰活動で全国的に有名です。
 
  ここ徳養寺本尊が胎内仏というところから、子授り観音として、 地元では親しまれています。安産と産後の安穏・子授かりを祈って参詣する特  に女性の信仰を集めています。
 ●アクセスは、兵庫県豊岡駅北西約7キロ江野バス停右折すぐ。
http://www.e-shops.jp/local/lsh/an/28/5798459.html
 徳養寺のお問い合わせは、℡0796(23)0840まで。現住職 岡本 肇也和尚
徳養寺と江野に関することは、http://www2.city.toyooka.hyogo.jp/edu/school/toyookakita-jhs/kyodo/21gouno.html#anchor5302

2009.09.08

5S活動のパターンセッターは、皆さんご承知の”整理”ですよね。頭の中では整理をすることがどれだけ大事なこととか、十分、分かってはいますが、これがまたなかなか一つ縄ではすまないのです。
 ある会社で不要物を捜し、それを捨てるときの作戦”赤札張り”をやっていただいたことがあります。未使用の設備や在庫品を赤札の対象とする例の整理の手段です。そのときの今でも、記憶にあるこんなエピソードがあります。
副社長という立場の女性経営者が、急にむくれて怒り心頭、この赤札張りに猛抗議をされたのです。もちろん整理をめぐる5S活動の趣旨、その方法、他部署の素直な発想にこそ、「ものの整理」を判断するヒントである、との心構えも彼女をはじめメンバー全員に学んでいただいた上での赤札張りであったのでした。
 多分、他部署の不要物探しパトロール隊が土足でどかどか自職場に踏み込んできて、次々と赤紙を貼り付けていく様をなんと無礼千万な行為だと許せなかったのでしょうね。

 
会社組織にいると自職場では「常識」とされる行いが他部署の者にはなんと非常識な振る舞いとして映ることがよくあります。他の人が自職場をどう見ているのか、研修の際にもよく行う「部署間イメージ交換」は、本来やらなければならない役割使命を虚心坦懐、掘り下げるときに効果があります。赤札を張る人は「黄札」は持っていません。また使ってはいけないのです。とにかく赤鬼になって貼る作戦なんですね。

 
でもこの女性副社長のように、そもそも論を通り越して「赤札パトロール」をあたかも債権者の取立てもどきに見立ててしまうものかもしれませんね。
 他人がどう見てもこれは不用物(粗大ごみ)だろう、と判断しても当の本人には宝の山であったりするのはよく理解できます。一番整理できないのが自分の机の中なんですから。古今東西、整理整頓こそ、”分かるができる”に程遠いものはない、とも言えますね。

 
最近、あることでお年寄りの自宅を大掃除することがありました。まあ、よくもここまで物をため込んだものか、と部屋の様子を見て唖然、愕然、驚嘆のきわみでありました。なにしろ昭和の新聞雑誌から衣類の山までとても手の施しようもない有様。。
 しかしこれとて僕にとってはゴミの山に映ろうと当の本人からすれば思い出いっぱいの宝の山かもしれません。昔の人ですから「ものを大事に」という教えが徹底しているでしょう。それぞれの”もの”には彼女の深い情けも入っているでしょう。
強制的に捨てさせることもできません。かといって”もの”が部屋を占領し、部屋の主人を追いやった生活を続けさせるさせるわけにもいきません。
最近、独居老人が不要になった長年の生活用品に埋もれて、身動きのできないほどのゴミの山に下敷きになっている様子が報じられていますね。大抵のお年寄りは、いつか元気なうちに整理すればいいわ、との思いでついつい放ってしまう。体も思うように動かなくなり、大量のゴミに埋没してしまうようになると考えられます。

そんなかんだで、僕の中でちょっとだけ”整理をする”ということを考えてみています。
整理整頓が大の苦手である自分が言うのもおかしいのですが、これは意識してかからんとあかんな!と思うことがあります。
「ジャスト・イン・タイム」
「シンプル・リッチ」
という、心の整理です。
 前者は、例のトヨタ看板方式で有名ですよね。必要なものを、必要なときに、必要なだけ持つという生産活動の行動理念です。後者は10数年前、僕の愛車スバル・ビビオのイメージビデオのコピーでした。美しい北欧の金髪女性が、レンガを張詰めた通りをビビオに
乗って、軽快に買い物に出かけるシルエットが忘れられません。皆さん、イメージ想像できますか。僕だけのストーリかも(笑)。でもいいんです。

人間、確かにどんなに嬉しいことや楽しいこともかなた向こうの出来事として忘却してしまうのが自然なのではないか、と思うのです。そしてシンプル・リッチに過ごすことがとかく大事なことなんではないか、と思うようになってきました。
忘れてしまうこともまたよし、だから今をせいいっぱい楽しんだらいいんじゃないか、と。。。写真の1枚ぐらいは撮りますがね。大切なのは”もの”ではなく
嬉しい・楽しい・悲しい・寂しいに代表される人と人との悲喜こもごもをしっかり脳のひだに刷り込んでおくことではないでしょうか。心に響き、感性にぐっときた生の記憶をなるべく余韻として残していきたいです。
そしてそんな体験の一つ一つが、生活に潤いと余裕をもたらすシンプル・リッチな行き方につながるのではないか、と思っています。
ものの整理ということを強く考えさせられた大掃除週間の学びでした。

2009.08.23

朝夕、涼しくなってきましたねえ。そりゃあもう8月も終わりですもんね。
昨夜は地蔵盆ということで、団地の銀座通り(笑)にも提灯をぶら下げた夜店がいっぱい。色とりどりの浴衣に身を包んだ子供たちの黄色い声がわが家にも夜遅くまで聞こえていました。
 夜店といえば、やはり金魚すくいですよね。でもなかなか上手くすくえない。あっという間に小遣いが夜店のおっちゃんに吸い取られル。こんな苦い思い出が昨日のように思い出されます。
見かねたお母ちゃんが見本を見せてくれて、やっと1匹、2匹ととれるようになったものです。
 
 幼少の頃は、親に手を引かれていく夏祭りも、成長と共に同級生や近所の悪餓鬼どもと出没するのが楽しみになりますね。色気づく中学生ともなるとお目当ての女の子の注意を引き出そうと、涙ぐましい努力をしていたのがおかしく、今でも顔がにやけてきますよ。
 それが高校時代ともなってきますと、ひっそりと女の子と示し合わせて2人で男友達の前に登場する、この優越感がたまらなくなります。えっそんなん僕だけ・・。とてもとても手をつなぎながらなんて、そら恐ろしいことはできませんでしたが・・・。「一生一大のお願い。。お願い。。」と頭を下げたうえでの友情出演を了解してもらったことだけなんです。彼女にしてみればいい迷惑だったでしょうね。きっと。

 
 友達のイメージは、年とともに変わっていきます。皆さんもきっとそうでしょね。
男性として、結婚し家族を養い、子供も独立、やがて夫婦2人の生活に戻るときになってうちには妻という友達の存在に気づくことがあります。一緒に、人生谷あり、山ありの苦労を歩んだ「戦友(ソウルメイト)」とでもいうのでしょうか。
 
 松方弘樹が奥さんの仁科明子と別れた名せりふを僕なんぞはいまだに覚えています。詳細は忘れましたが、内容は、確か(多少の僕の造語はご勘弁を)
・恋愛時代は熱情、
・結婚前後の激情、そして合体・・、
・子育て時の暖かい友情前期、
・子離れどきには互いの尊重や信頼をベースにした友情後期、
・定年後は寂しさを思いやる同情、
・コミュニケーションが断絶するとなると諦情(あきらめ)
・後期高齢年齢となると憐情(憐れみ)に変わり
・そしてついには足腰動かぬ年齢における慈悲の情け(感謝とざんげ)
 
 ムっ! この変貌・・・。
 まっ、言い得て妙なり、と。

 夫婦の間はともかくとして、男性同士もやはり友情は変貌していくものと思っています。
まだ自信も生き方も定かでない学生時代や独身のときは、とにかく一緒にわいわいがやがやと寂しさを紛らわしたり、”あほ”なことを言い合って互いの結びつきを確認したりしていましたね。(同類合憐れむのたぐいで群れあう)
 結婚式にも多くの友達を招待していました。でも今、60を過ぎる齢になって、付き合っている友はたった3人だけですよ。

 
 少し前の産経新聞にこんな詩が載っていました。僕が友に求めたり、またこういう間柄が本当の友達ではないか、と日頃から思っていたことです。随分、符合していたので、大事に覚えていた詩です。

「言ってくれるようなあ
 痛いとこつくよなあ
 でも温泉の様に じんわり効いてくる
 何故かほろりと するんだなあ
 ああー
 そんなあんたにであった おかげで嬉しいよ
 なんとか頑張れたよ
 もうすぐ定年迎えます」

なんか、ぐっときません?
みなさんにとっては、友達はどのような存在なんでしょうか?
それぞれの人生、それぞれの暮らしともに、きっとそれぞれの友達がいるんでしょうね。

2009.08.13

いよいよ毎年の日本の夏行事、お盆休みですね。
皆さんはどのようにお過ごしですか。
ご先祖さまをご自宅にお迎えする13日~15日、僕も子供をつれて故郷のお墓参りに行くのが恒例になっていました。
でも子供たちが成長し、学校を卒業して就職、そして結婚。・・・。
となると今度は僕の家が故郷に変わってしまいました。
孫やら親やらが自宅に集まって、真夏のひと時を会するっていうのはやっぱり、いい日本の伝統美といえますね。夜には、小さな庭に盂蘭盆会の蝋燭の灯りをともし、亡き両親やご先祖様の思い出話を交わす。そういう家族の絆を再認識するのがきっとお盆なのでしょうね、

またちょうど、1年の前半期と後半期の切り替え時にお盆休みがあるのも一つの区切りでいいものです。
僕のところは自営といっても個人事業所なのですが、潰れることなく事業が継続できている喜びをひとしお感謝しています。感謝と同時に後半期に向かっての覚悟にパワーを注ぐことができるような夏休みを過ごそうとひそかに思っています。

でもとかく意識すると、やりたいと思っていることが気にかかり、気負いで空回りということが僕にはよくあります。今回も立松和平著「道元」下巻を買っては見たものの一向にはかどらない。予定は未定。計画倒れ。・・・いつものパターン。ああ、やっぱり僕は意思が弱い・・・と。

最近、少しだけ吹っ切れたとというか、自分にいい聞かせていることがあるんですよ。つもりやはずは、人の常。「人間、本来無一物」ってね。実は僕の実家は、小さな禅寺なんですが、庫裏の客間床の間に「本来無一物」と掘られた炭竹が吊り下げられています。

じたばたしなくても、所詮、世の中、何もないんだよ。今あるように思うのは人間の欲からくる幻想でみんな錯覚の代物ですよ、ということらしい。本当の意味は定かではないが、たしか僕の中学3年生のとき、田舎の小さな集落の中では、珍しく上品でいかにも教養人を思わせる老人が教えてくれたのです。白髪に長い白ひげが似合う檀徒総代という方でしたので子供心にふ~んそんなことか。と妙に感心した次第。

平凡でも当たり前のことをごく自然に行う、突然の珍客にも惑わされない。夕べにねぐら訪ねられるに共に捜し、朝げに教えを請えばこれを授ける。肝っ玉が座っていてこれぞ”Theグレイター”っと思わず羨望してしまいます。文句なしかっこいい。余裕というか、人としての優しさ、これってやっぱしキャパシティの広さ、ですね。

これが簡単なようでなかなかできない。一つ行えば、必ずああでもない、こうでもない、とへんてこな自省が入る。自省といえば聞こえがいいが、なんのこっちゃない。出るのは愚痴ばかしなんです。人生後悔ばかり、とは文豪、有島武郎の句ですが、反面、後悔先に立たず、一歩、前へ。踏み込めば道が開かれる、との思いで今年、後半を臨んでみようと考えるお盆休み前夜でありまする。

皆さんもよい夏休みを・・・。

2009.07.20

せっかくの連休というのに湿気でムンムンの日曜日。高温多湿の天候では気力・体力・行動力の全てが完全に麻痺、見るもの聞くものにほとんど反応しなくなってしまいます。とにかく体中が重い。頭はぼんやり、視界も黒い霞がかかって先が見えない。とにかく鉛のように重い頭のせいで背骨が前のめりに曲がってしまう。自分の細胞エネルギーの全部が湿った外気に吸い取られるようだ。声を出すのも苦しいし、体の皮膚という皮膚にヤモリのような吸盤がくっついてヒクヒク僕の動きを止めています。足には朽ちかけた落葉が何枚も付着(濡れ落ち葉です)しているのです。こんなブルーな気持ち、僕だけでしょうか。。  とにかくしとしとが嫌なんですわ。降るなら豪雨がスカっとしますね。というわけで今日は自室で引きこもり、来週の仕事の準備や昼寝と決め込みました。

 皆さんの3連休は、いかがでしたか。
学校は、夏休みに入りましたね。夏休みといえば朝顔を思い出します。我が家でもプランタに種をまき、いま屋根の桟につるが延びていっぱいつぼみをつけていますよ。小学生のとき絵日記や理科の観察記録で随分とお世話になった花です。ラジオ体操が始まるのが朝6時半。赤、白、ピンク、紫、青の大輪が涼しいうちに競って咲いていたのが懐かしいです。大人になってもあの頃の同じ気持ちで観賞できる日もあと少しです。

 花を愛でる、気持ちをもって立ち止まることは日々の喧騒を忘れさせてくれる、ひとときと思います。
 一昨日の夜、久しぶりに竹馬の友と会いました。彼曰くに「人間、みな醜い。欲の塊や。もう人間不信になるわ・・・」
苦労した彼だけに利用だけしてハイ、さようならとする経営者が許せない、のも分かるような気がします。
しかし利用したり利用されたりもまた人の常。人生は一つして無駄なことはない、というのも本当ではないでしょうか。

 僕は、”大地百花”という言葉が好きです。生活のなにもかもが花という意味だそうです。なにやら父が禅語のひとつだとして小学生のとき話してくれたことを思い出しています。毎日繰り返される当たり前のことが大切だと禅では「作務行」を説いています。
この当たり前のことが皆、花だとしたらそこで充足する思いをもつことが大事かもしれませんね。さて今年の朝顔はいったいどんな色合いで僕を迎えてくれるのだろう。

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