オフィス人事教育のふれあいブログ

2009.07.06

こんにちは!社労士の岡本です

久しぶりにブログ書きます。どうも社労士の立場で書くっていうのは少々気構えてしまいます。そこでもうやめました。一人の60代男が日々の暮らしで気づいたこと、聞いてもらいたいこと、喜怒哀楽こもごもを何でも綴ってみるのもまあっいいかな、と思うのです。
というわけで今回、一番、訴えたいのは、最近僕の周りに「自分だけやないか!」、と叫びたくなるような、めちゃ、自己中人間がもう加速度的にくっついてきているんです。

皆さんは、携帯電話で相手につながった時、「今、よろしいですか」というマナーぐらい持ち合わせていますね。(本当ですか?ひょっとして?む。む。。)
 自分と相手の関係が、先読みできない人が増えましたねえ~。頼みごとや、お願いごとばかりではありません。むしろいろいろと教えてくれたり、親切心で聞いてきてくれたりする場合もちょっとした第6感のセンスが必要なんですね。たしか太宰治の「走れメロス」と思いますが、厳寒にさ迷っていた男が遠くにぼんやり民家の裸電球の灯りを見つけたのです。空腹で倒れそうになっていた最後の元気をふりしぼり、やっと辿り着いたそこには楽しそうな家族団らんの情景でした。「今、ここで声をかければ、子供たちがはしゃぐこの家族の団欒は、見知らぬ珍客で凍り付いてしまう、そんなことはできない。」といってまたぼつりぼつり行過ぎてしまうという話です。ま、ここまで相手を慮るまでもないと思うのですが。人間関係上、こうしたらこうなる、という第6感は、ある程度の年齢になればやはり身に着けてもらいたいですね。ちょっとしたマナーに欠けると全て迷惑に変わってしまうことが多いいのです。

 ちゃんと良い頭があるのですから難しいことはないんですがね。相手の状況を想像するセンス、う?相手が感じる快・不快の先読み、いい関係づくりの感受性みたいなものが少しあればどうってことは無い。
以前、僕はわが家の独身貴族でいる息子に激怒して切れたことがたびたびあった。
ことの理由は、自宅に帰ってくるのか来ないのか、さっぱり連絡が無い。訳あって息子と2人暮らしが続いている折、父子家庭での家事はなかなか大変。夕ご飯が要るのか要らないのか。帰宅するのかしないのか。最終電車にちゃんと乗っているのか。風呂のお湯は流していいのか。等々・・の基本的生活習慣のいいかげんさに爆発したのだ。
要するに生活のリズムが乱される。呼吸も乱れる。副交感神経が高揚して寝つきが悪くなる。・・・。ということで”切れる!”のは必然的帰結と相成る。
息子ならばざっとこんな感じだが、他人となるとこうもいかない。我慢するか、「なんと気がつかない人なんだろう」と、そっとこちらから距離を持つ。俗に言う引いてしまうのだ。

僕は、最近、人の真意を聞くことの難しさを考えざるを得ないことが多くなっている。真意を伝えるにはコミュニケーションの手段を駆使するのだが、さりとて言葉という言語的手段は、それを発したときから大いなる錯覚と思い込みにとらわれてしまう。
コーチングの手法で、正確さを取り戻す質問の演習がある。
理解している言葉と錯覚している(思い込み)の言葉を特定の質問で区別していくのだ。言葉巧みに熱弁を奮っても言葉は、削除→ 歪曲→ 一般化というプロセスをたどり、言いたい最深部の10%も伝わらない、とされています。皆さんも経験されてませんか。
 一方的に話していい気になっている高齢者も若者もコミュニケーションのマナーをもう一度、身につけてもらいたいものだ。
これは最近、つとに考えていることだが、自己中人間へはこちらの方からのガードが必要である。
一つ、PTOに応じて自分の意思をはっきり示す。(相手が厚顔無恥であれば、お門違いということぐらい言ってのける勇気を持つ)
2つ、自分が理解し納得できるまで質問する。(うるさがられても、分かっている振りして尋ねないほうが失礼)
3つ、相手の言葉よりも表情や態度、声から真意をつかむこと。(言っている内容より
その言い方、本気・真心・言葉の選択の間や思考のプロセスなどを感じる)

自己本位の人間には、最初から人を思いやる”友愛(流行ですね。)の気持ちが歪んでいるのですから、こちらも意に沿わない付き合いには「ノー」とはっきり言えばいい。
心底、傾聴してあげられる人には、とことん愛を持って。しかし自分の都合で、自分の不安やコンプレックスでこちらのアドバイスが欲しい、というのであれば、それなりにマナーは持ってもらわねば。

コミュニケーションギャップがこの先、ますます大きくなる予感がします。しかしそのギャップを埋めることに努めない関係は、あらゆるところにトラブルが付きまとうもの。
こういう連中とは、仕事は絶対一緒にやっていけません。間違いないです!家庭でも、友達、恋人・・あらゆる関係が錯覚の上でしか成り立たないとすれば何を信じて過ごせばよいのか。寒々しますね。
 今夜も、NHK「天地人」を見ていた。鎧兜に愛を高々に掲げた男、義を戦国乱世で貫いた直江景勝、ドラマ仕立てであるが、実にかっこいい。愛に支えられた行動を取れば、生き延びるだけでなく、勝利するだけでなく、成功するだけでなく、それ以上のことができる。人たらし豊臣秀吉の人海操縦もひとたまりも無い。
 こういうドラマの主人公に憧れ、久々に高僧禅師の軸を眺める人間、ああ、この体たらく、凡夫、煩悩にとらわれ苛立つ己の欲ふかさ、やっぱ僕も所詮、自分本位のしがないおじさんなのか。かっこよく生きたい、と思うことがつまり囚われ。不安や恐れや攻撃やコンプレックスの生き様であろうに。