オフィス人事教育のふれあいブログ
2009.01.23
まだお正月?遅がけのわが悟り。。。
2010年がスタートして早、もう1月も過ぎようとしています。本当に早いですね。
皆さんのスタート・ダッシュはいかがですか。
「無常たのみ難し、知らず露命いかなる道の草にか落ちん、身すでに私にあらず、命は光陰に移されてしばらくも停め難し、紅顔いずくへか去りにし、たずねんとするに証跡なし、・・・・」
なんやらややこしいフレーズで恐縮です。中学の頃、よく親父について回って寺院の行事などで拝んだ読経の一こまを思い出しました。
その主旨は【逝く河の水のように時は刻々に流れてやまず、まことに頼りないものである。
過ぎ去ったときは再び戻らず、不確かな未来は、他人と同じくあてになるものでない。
自分の身でさえ自由になるものでなく、いつの間にやら年をとり、若さが失われて行く。かっての紅顔の美少年の面影はどこにあるのか、跡形さえ残っていない。】
とのことであるらしいのです。
このような無常観をしみじみ考えてしまう月日の早さですね。毎年、めぐるめく春夏秋冬を過ごし、年を重ねています。そして、僕は一体何をやってきたんだろう!と今までを振り返ることがあります。お正月と大晦日の繰り返しです。
そのときの自身の整理付けが人さまざまで面白いものです。
俺は家族が幸せに暮らせるように一家の大黒柱として一所懸命、稼いでいるんだ、というのがこの世の殿方の最大公約数でしよう。一方、家事と仕事を両立させながら家族を笑顔いっぱいの団欒に演出し頑張っているご婦人たちも大勢いるでしょう。
私たちは○○のために○○するということをよく言います。
人の行いの意味づけというのは、どうもこの○○のためといういう大儀がなければならないのでしょうかね。国家国民のために私は○○をする、という弁士は確かに勇ましいのですが、どこか胡散臭さも垣間見られます。この何々のためという魂胆が曲者のような気がしてなりません。(きれいで耳障りの良い言葉の裏には、魔性の誘いがあるって言うじゃないですか。)
という僕もよく○○のためという前置詞をおいた行動でなければ重い腰を上げられないことがよくあります。
でもこの前置詞付きの行動には、少々無理があるという気がしています。そして自分を奮い起こさせる鞭の役割しかないことが少しづつ分かってきました。所詮、あまり気が進まないことをなんやら理屈をつけているんじゃないか。長続きもしないものだから何かと意味づけや理由を求めているんじゃないか。
それよりもしたいこと、せずにおれないこと、立ち上がらざるを得ないことをひたすらに行う、この正直な自分自身の表れのほうを大事にしたい、と考えることにしました。若いときはそれなりに正義感もあったように思っています。年齢とともに気力・体力・知力も変わっていきますね。でもそのときどきの身の丈にあった「できるもの・したいもの」をやっていければ幸せなことでしょうね。
つい先日、かねてからの自病が進んでいることを医者に告げられてしまいました。いつも意識のどこかで病との葛藤があったのですが、これからの命の選択は正直な自分との対話の中から見つけていこう、と思います。
少しくらい道理に合わなくてもいいのではないか。正しくなくてもいいのではないか。後ろ指をさされても自分が楽しければいいのではないか。そういう気持ちで、ときには着膨れした妄想やちょい悪親父も楽しみながらともかく健康で元気に、という感じですね。
幸いこれからは楽しみがあります。2月、3月と陽はどんどん長くなってきます。なんとも活動時間が明るいのがいい。この陽の明るさは8月のお盆までは続きます。1月から8月までを太陽の季節、9月から12月までを月の季節と勝手に解釈しています。ムーンシーズンが少し短いのですが、発光と充電の比率は2対1ぐらいの比率がちょうど按排がいいのです。
なんやらまた自戒自伝もどきな話になってしまいましたね。1月が終わり、2月は逃げ3月は去る、って言いますよね。まさに光陰矢の如し。要は世の中で最も確かなものは、いまここの一点だけだという思いを再認識してみたいのです。仕事でも恋でも、このいまここの一点に全エネルギーを集中し蓄積してこそ、そこに事実上の成長や実現がもたらされるのではないでしょうか。